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鬼太郎と細胞と大辞泉

2013.07.11 Thu
 言葉が不慣れのため床屋には行けず、その結果伸びた前髪が片目を隠す、ついに「鬼太郎」と呼ばれるようになるが、身長が186センチ前後と、随分と巨大な鬼太郎と言えよう。

 言葉が不慣れのため無口であるが、相手の問いに理解できない時は笑って誤魔化し…言わば笑顔が武器であった。

 日本語がわかって来たかもしれないと言えるのは、来日して五年目以降であると、振り返って思うわけだが…ともあれ当時学内最も新しい建物だった教室に―それは一回生から四回生までの教室を想定したものの、教室と教室の間に壁がなく、不思議な所に聳える四本巨大な柱に四列のロッカーのみで仕切られた、200人ほど収容できるほどの大広間になっていた―冷房と暖房があったため、それを作業の場にして、課題が少なかったこともあって只管自分のマンガに時間を打ち込んだ、それもイキナリ90ページをもこえる超大作…

 さて日本初のマンガ学科(当時)に月に一回ほど教室にやって来るテレビ取材にマヒしてきたあの頃、ようやく大学の教員の顔と名前が一致して来た。

 その中でも伝説の編集者と言われるY編集長との出会いが大きい。へヴィスモーカーだったY編集長は、一風変わった風貌だったと言ってしまえばそれまでだが、S社で少女マンガの発展に力を尽くしたを言われ、なかでも24年組と呼ばれる世代の少女マンガ家の多くと関わって来た、まさしく日本マンガ発展期を切り開いた編集者の中の編集者である。テツカ番の頃にマコトくんを池に突き落としたというエピソードも有名だ。

 そのY編集長に一回マンガを見せたら一ヶ月間は落ち込むという評判が忽ち我々の間で広がり、そこで私が「当たって砕けろ」という気持ちで、例の90ページをも超える大作をY編集長の研究室に「持ち込んだ」のだった。


 ――人体の器官を自由に生成できる「i細胞」なる研究の第一人者本間博士の下で研究を重ねる若き科学者のヒカリが、ついに博士の一人娘と恋をするが、博士の人体実験に反対したため実験に使われ異形な体になり果てて、数百年後復讐の鬼になって本間博士と仲間が築いた世紀末帝国に立ち向かう…といったストーリーだった。

 さて、2メートルもあろう鉄の組み立て本棚に囲まれる空間の中、緊張感が高まっていく…


 「キミは「細胞」という言葉の意味わかっているの?」

 「えぇ…はい」

 「そうかなぁ~?「細胞」の意味本当にわかってるのかなぁ~?」

 「わかるとオモイマス…」



 Y編集長が、枕も顔負けの分厚さを誇るS社の大辞泉を本棚から取り出して、めくり始めた…


 「あったあった、ほら見ろ!これが「細胞」なんだよ!よく読んで!」

 「は、はいぃ(泣き)」



 一時間もあろうか、内容ではなく、もっぱら「細胞」とゆう言葉にまつわる話だったのだ。



 ……後輩の入学に若さ故に燃えるライバル意識、自己主張と自己認識の日々、とにかくマンガを描く手を止めることがなかった…



 そして休日、誰もいない大広間の教室に、私は常にいた。

 私しかいない大広間の教室に、Y編集長がよく通りかかった。


 「おう!描いてるかよ!?」

 「あ、はい!」



 思えば、決まって聴こえるあの掛け声で私は手を動かし続け、10年近く経った今でも、純粋な絵描きから外れたものの、マンガに携わる仕事が出来た。

 Y編集長は私が大学卒業する直前あたりに体調を崩され、大学も出版社もついに第一線から引退し、その後お孫さんが生まれたそうだが、会うと必ず「孫ってカワイイもんだよ」と言い聞かされる。そして多くの資料書籍と共に「細胞」という言葉に線を引かれたあの時の大辞泉がいまでも私の作業場の本棚に収まっているのである。
クロッキーその3
2008年頃に描いたクロッキー 作画時間約2分 鉛筆による



総合マンガ誌「キッチュ」

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落ち武者と悩ましき永遠の謎

2013.06.29 Sat
 日本語学校の窓から見える小学校(あるいは中学校?)の運動場周辺が、台湾にいた頃見た日本の心霊番組で紹介された口元が裂ける落ち武者の生首がうつる心霊写真が撮れるという心霊スポットであることに気がついたのは、三ヶ月間の日本語学校の基本課程を終えて大学に入学した後である。

 さすが古都だけのことはあると驚嘆しながら、日本語学校の課題をこなした時点では自分の言葉はもう完璧だという錯覚が生まれたことが、いまや恥ずかしい記憶になっている。

 さらに思い出として、五千円ほどで購入した小型テレビが不思議とアンテナなしで京都の地方チャンネルを見ることが出来たが、毎日(野球の)阪神漬けの番組にうんざりしていた自分が、いつの間に応援するようになり、気が付いたらついに阪神ファン十三年目に突入したのも、我ながら興味深い出来事と言えよう。

 北海道生まれの方が本物のゴキブリに好奇心を抱くこともあろうか、私の場合台湾のバラエティ番組にしばしば登場する日本という国に来たことに、「あれは本当だったの?」という疑問をまず一つ一つ検証したいという強烈な欲望が脳内に走ったものだ。

 なんと言っても台湾で見た日本の食番組でリポーターがなぜかラーメンを「美味い」か「不味い」かではなく、「なるほど!」とコメントするという大きな謎を解くべく、日本に来た頃からラーメン屋さんを見かけては空腹かどうかに関わらずにとにかく入ってみたものだ…

 さて日本語勉強のため絵を描かない数カ月間を終え、当時まだ学科だったが、いよいよ日本初のマンガ大学に入学できたわけで、「描くぞ!」という意気込みだけが胸中に渦巻いている状態であった。

 しかしいま振り返ってみれば、マンガの大学に対する期待から来たものだったんだろうか、その意気込みの正体はおそらく「描くぞ!」ではなく、「描かされるぞ!」という学科そのものを頼りたい気持ちであった。

 当時の教員は漫画家以外に評論家そして編集者というメンバーでバランス良く構成されていたが、先例がない高等学校のマンガ教育そのものが先生方を悩まされていたに違いない。そんななか、授業の一環として大学で初めてのクロッキーをしたのは、二回生前半の頃だったと記憶している…。

 なにはともあれ、「山」盛りの野菜と肉に麺が見えぬほどの濃い油層で初めて注文する者に絶大なインパクトを与える〇郎系ラーメンに絶句した私だが、未だに日本ラーメンの「なるほど!」の謎が解けないでいるのだ。
クロッキーその1
2009年頃に描いたクロッキー 作画時間約3分 筆ペンによる



総合マンガ誌「キッチュ」

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日本にやって来た台湾マンガ少年

2013.06.23 Sun
 時は1998年頃、日本のとある美大が台湾に存在する三つの芸術系高校にわざわざ学生を募集しに来たことは、少子化に伴う学生不足に対しての危機感によるものだろうが、今現在日本中の大学の現状を見るとそれが先見の明と言わざるを得ないだろう。

 ともあれマンガを夢中で描いてたことで「社会のウジ虫」たる勲章を中学校の教諭から授与された、当時芸術系の高校二年生だった私にとって、「マンガを教える大学」なんってのは夢みたいな話である。

 さっそく応募したのは、言うまでもない。

 いま考えれば変な話だが、大学の教員ではなく、高校内の教員による推薦入試が行われたのだが、それを受けるためにそれまで無地ノートに描いた大量なマンガを一冊のポートフォリオにまとめる作業に取り掛かった私が、一人で高雄市内を探し回って、当時は既に引退した写植マンの協力を得た。日常界隈的なストーリーを面白く見せてくれるイラン映画のような出来事だった。

 ところで教員とよく議論してしまったことで、結局私が推薦入試には合格せず、候補のみとなっていたことにひどく落胆したのをいまだに覚えている。十五年近く経った今、現にあるところから「学生に影響を与える恐れがある」という勲章を与えられた私にとって微笑ましい思い出ではあるが。

 さて「候補」としての私は、どういう経緯で「合格」したのか…クラスメイトが経済難のため辞退したのが、原因だったのだ。

 裕福だとは、自己で主張するものではないが、その約七年後家族が巨額な借金による破産というドラマチックな展開になるとは、想像もしなかったものの、さてはいまならあの頃の我が家は裕福「だった」と主張してもいいと思う。

 話せば長いが、今は取りあえずそれを割愛して、「絵」の話をしたいと思う。

 小学校からラクガキ感覚でマンガを描いてきたが、芸術系高校に入ることによってようやく周りにもマンガを描く人間が増えたが、それでも数が少なく、「マンガの上手いやつ」という定評は不動なものだった。

 さて日本全国の「マンガの上手いやつ」が一つの空間に集まったらどうなるか。

 「刺激し合う」という、博士課程で美術科教育学を五年間やった研究者だった自分としては言って違和感ない言葉だが、「刺激」の定義は別として自分の経験談からしてその時の心境を一言でいうと「自信喪失」そのものだったのだ。

 「げげ!上手いやつがいっぱい居やがる!」

 大学卒業した後も十年近く母校の後輩を見て来て、一概にそう言えないかもしれないが、その感情に国境がないように見える。
クロッキーその2
2010年頃に描いたクロッキー 作画時間約3分 筆ペンによる



総合マンガ誌「キッチュ」


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炎天下の独り言

2013.06.16 Sun
 マンガを教える大学で起きた数年前のことだが、これまで二つのコースの学生の履修可能だった「デッサン」の選択実技授業が、初めて三つのコースの学生が履修できるようになったことをきっかけに、画家の二人の教員が担当する授業に百二十人もの学生が登録することになった。

 百二十人が力を合わせ一般授業用の大講堂の机を取っ払って、その広い空間の中で百二十機のイーゼルがフル稼動し、二人のヌードモデルが百二十人の熱気に囲まれた壮大な風景をいまだに忘れない。合わせて二講時、長さ三時間の実技授業だが、最後の合評の時間になりますと、たとえ一人の学生に対して一分を使ってコメントしても、百二十分はかかるものだったため、助手の私と教員二名の三人がそれを分担して行ったわけです。

 さて彼らがあるものを追い求める熱意が人数に伴ってそれが膨大なプレッシャーになって講義する側に伝わってくる…それはつまり

 「画力」というものをである。

 マンガを描く人間、マンガを描こうとする人間にとっても「画力」というものは強い憧れを備えた甘美な果実のように思わせる、まさしく魔力のドロップとも言えよう。

 それはどこから来るものだろう。マンガにストーリーがあって、ストーリーを見せるためのマンガがあって、語りたいストーリーのために著者がイメージする描写を描くために、どうしてもほしい「能力」というものか。あるいはマンガの先達のマンガを見ていると「この圧倒的な画力がほしい」という表現者を志す者の貪欲とともに、それが先達に対しての憧れの気持ちでもあるじゃないだとうか。時には「上手い絵が描ければ良いマンガを描ける」に飛躍すると言っても良いだろう。

 さては良いマンガはどうやったら描けるだろうか?私には分からない、誰がわかる人は教えてください。しかしながら、マンガで絵を描く以上、あらゆる手を使ってでも「上手い絵」に近づかない術がないわけというものだろうか。



総合マンガ誌「キッチュ」



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