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「キッチュ」第一号掲載作品紹介:読者によって完成される物語

2010.06.17 Thu
 ピアノを弾き続ける、ロボット。 
 
 ピアノ弾きロボ

 その姿を見つめ続ける、姫。

ワガママ姫

 この6ページの読み切り『王宮ピアノ弾きの恋人』が手に届いたときに、「まるで絵本のような、おとぎ話のような」という決まり文句を頭に浮かばせながら、ページ数に入れられる情報量も考えつつ、最初の読者のつもりで読み始めました。

 「姫のお気に入りのピアノ弾きロボットは、王宮に呼ばれると、必ず故障して帰って来ます。職人は王家に気に入られたことで喜びつつも、その原因不明の故障ぶりに戸惑いを隠せない。王宮から抜き出してまで会いに来る幼い姫が、その原因のカギを握っていたのです…。」


 ――マンガという架空の環境を構築するさい、「比較」することで、物語が補足されます。「比較」の手法は千差万別で、登場する人間の性格と温度差などが挙げられます。そして「架空」というのは、一つ現実でなければならないのであり、フィクションという前提のリアルなのだと、考えています。

 2010年日本で公開された映画『アリス・イン・ワンダーランド』では、ファンタジーの世界を、(劇中の)現実世界と並ばせて物語を進行させる手法に注目したい。あくまでも表現者の「千差万別」の一つとして、私個人的に、この作品における物語の「リアルの行方」は明確ではないと考えるのであります。現実と非現実の違いを区別するために、両方取り入れるのはそう珍しいことではありませんが、この作品の場合その境目は非常にきわどく、効果をはたしているのかは疑問を感じます。

 絵画の画面上の明暗や量感などは、同一画面に描かれるモチーフ同士の比較によって生まれるものですが、制作意図によって画の枠外のものを引きこむ場合もあります。ルネ・マグリットの『これはパイプではない』という、(私にとっての)素晴しくも不毛な傑作が、そうであります。

 さて、『王宮ピアノ弾きの恋人』だが、王宮、ピアノを弾くロボット、姫に職人など、諸要素が作品外における現実とのつながりを認められる。それでもこれらによって構築されたこの物語全体そのものが、現実のイメージとは異なる存在になっている、が、しかし、諸要素の組み合わせで物語を再構成するというマンガ表現を見て、それを考えではいけない。例えば『巨人の星』の「大リークボール養成ギプス」を理屈で考えることなぞ、それこそ現実的ではないと言わざるを得ない。

 だがこの作品は、前述のように、全6ページであり、表現の手法によって場合は異なるが、情報量に限りがある。が、しかし、読み返しているうちに、姫はなぜピアノ弾きロボットに好感を持ったのか、職人はなぜピアノ弾きロボットを作ったのか、なぜ、その姿なのか、それぞれの過去はどんなものだったのか、そもそも王宮はなぜピアノ弾きロボットを呼んだのか…などなど、ハラハラして仕方ないのであります。

お心遣いであります☆

 読み方にもよりますが、お二人(?)の関係の行方を考えると、やはり後ろめたさが先走りするのであります。『王宮ピアノ弾きの恋人』の可愛い絵の裏腹に、残酷さの可能性も秘められているのではないかと考えます。ここで私は一人の読者として、「ある意味これは読者によって完成される物語」だと、自分の脳中で偏見による独断をしたのであります。

 「まるで絵本のような、おとぎ話のような」という決まり文句を頭に浮かばせながら……(呉)

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