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「キッチュ」第三号掲載作品紹介:幻想と本能

2011.06.16 Thu
 海辺、晴天、そしてタコ…
タコ!


 道端、親切なおじいさん、そして記憶…  
思い出


 キッチュ第三号で掲載させていただきました、もぷ子さんの作品――『海辺の昼下り』と『工事のおじいちゃんの話』、それぞれ5ページの短編です。どちらも少女が常日頃に遭遇したささいな出会いと別れの記憶を描く作品で、何処かで不思議な香りがする…


 少女が海辺で「知り合った」釣りのおじさんと、約一時間ほど(らしい)の会話、それはいつもとちょっとだけ違う昼下り…


海辺での出会い


 『工事のおじいちゃんの話』では、少女が放校後の帰り道に、見知らぬ工事のおじいちゃんに声掛けられたお話。相手は面識のない所謂「知らない」大人、少女は、ついついおじいちゃんを怖がってしまっていた…


帰り道で…


 一見平常(日常)の出来事を語るだけの内容のように見えるかもしれないが、この二つの独特な短編を単なる日記(記録)マンガと定義するわけにはいけない。

 記録と表現を内包した、あるいは表現そのものが記録の手段…などヤヤコシイ言い回しに発展してしまいそうが、要するに作者にとって、マンガは表現の手段であって、作者の記憶は作品の元になっていると言えば分かりやすい。さらに作者はテクニックを駆使して作品を制作すると同時に、もちろんその元は自身のあらゆる経験と感性であって、そういう意味では彼らが作品を制作する行為自体が、自己分解と言えましょう。

 しかし自分自身の人格、経験(記憶)、感性を持っても、それらをこのように第三者に公開する前提の作品を完成させない限り、当然表現者ではあり得ない。

 「予定される表現」はあくまでも「幻想」であって、逆に「実現された表現」は表現者の「本能」そのものと言えよう。

あなたがええ子だからあげるんよ


 思えば消費者(読者)が作品を、例えば人物がカッコいい、内容が面白い、もしくは詩歌を吟じてその趣を味わうのように、あるいは文学的な鑑賞の仕方をする場合もあるかもしれません。それは言わば読者だけの特権であろう。しかし、もしも読者が、作品を吟味することによって、作者そのものに近づけると言うのでしたら、それこそほぼ「幻想」だと断言していいのではないかと、考えています。

 と言っても、作品は表現者と消費者を区別するための存在ではなく、作者と読者の間――それは作者の作品が、読者の感性によって再構築されることによって――で不思議な関係を作り上げるという結果をもたらす存在なのだ。

ほな…

 遠さかって行くおじいちゃんの後ろ姿は、少女の目に、そして読者の目に、どういうふうに映るのだろうか…(呉)

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